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「いるの? いないの? 記憶と心霊」への招待


記憶と視覚イメージ

逆巻 しとね

ある冬の朝、前夜に降った雪がアスファルトの上に氷の膜を張っていました。この上をぎこちなく上下動しながら一台の自転車が進んでいきます。自転車の漕ぎ手は母でした。母の前方にはわたしが、母の後方には弟が乗っていました。兄弟の位置は反対だったかもしれません。いずれにしても三人乗りです。右手にゴミ捨て場が見えてきて、母は右に自転車を傾け、右折を試みました。途端、わたしは宙を舞い、景色を失いました。

 横倒しになった車輪が目の前でからからと回っていました。

 二度の骨折。

 一度目は左腕の尺骨。

 サッカーの練習中、何かの拍子にバランスを崩し、思わずグラウンドに手を突き立てた瞬間、左腕に激痛が走りました。しかし骨折の経験のなかったわたしは、なにが起こったのかよくわからず、とりたてて不自由もないことからそのままプレイを続けました。コーチが一旦プレイを切り、みなを集め、改善点について説明しているときに異変はやってきました。

 視野がセピア色から白黒の世界へと褪色していったのです。

 二度目は右足首の内側、脛骨内果という箇所の骨折。

 サッカーの試合中、それも終了間際のことでした。対面していた相手チーム選手がシュートを打とうとしていました。わたしはシュートが放たれる軌道を予測し、右足を突きだしました。シュートはわたしの右足首の先端、親指の根元付近を直撃し、ゴールから逸れていきました。ほどなくタイムアップの笛が吹かれました。しかしわたしは立ち上がることができませんでした。右足首には経験したことのない強い痛みが脈打っていました。その日はチームメイトに肩を借りて帰りました。捻挫だろうと高をくくっていたところ、次の日まったく歩けなくなってしまいました。父に背負われ病院に行くと、医師はレントゲン写真をわたしに示しました。黒を背景に、小さな白い切片が別の白い影から剥離しているように見えました。ここが折れている、と医師はわたしに切片のあたりを指して説明しました。わたしは自分の足がふだんどのような構造をしているのか知りません。なるほどそうか、と納得するしかありません。しかし医師はこう言葉を継いだのです。

 「折れたのは二度目だね」。

 以上のエピソードは、雪上でからからと回る車輪、色を失った白黒の世界、自分の足を映しているというのに自力ではなんの情報も読みとることのできない写真、という3つのイメージから再構成したものです。

 記憶はどうして視覚的なのでしょうか。

 もちろんプルーストのあの有名なマドレーヌの匂いのように、嗅覚によって記憶は喚起されることもあるでしょう。懐かしのはやり歌と結びついた失恋のエピソードもあるでしょう。ハリネズミは場合によっては手触りとして記憶されるのかもしれません。

 しかし祖父の遺影、修学旅行の記念写真、アテネ五輪の野口みずき、舞い散る桜。わたしたちはあらゆるものを視覚イメージとして記憶したいという欲望を隠しません。

 ケータイを経てスマホが普及した今、わたしたちは目の前の経験をすぐにカメラのフレームで切り取り、すぐさまSNSやストレージサービスに送ります。まるで静止画や動画として残しておかなければ、記憶できないかのように。わたしたちは記憶のために、視覚的な記録をつくることに執着しているようです。些細な出来事をすべて忘れたくないかのように。ほとんど強迫的といってもいいくらい。

 

 記憶する。

 たくさんのものごとをはっきり正確に記憶する欲望に応えるべく、人間は技術に夢を見ました。

 この8月に彩流社より刊行された、三村尚央さんの訳業、アン・ホワイトヘッド『記憶をめぐる人文学』では、記憶を技術的なイメージとして思い描いてきた欧米圏の文化的営為が論じられています。蝋板に印字が押しつけられるイメージやパラフィン紙の上から尖筆で文字を刻むとその下の粘土に痕跡が残されるというイメージはその典型でしょう。どちらも記憶の視覚性が際立っています。災害や戦争の痕跡を残すためにモニュメントを建てたり、死亡事故現場に花束を捧げたりする行為は、一目でわかりそこに意味を読み取ることへの期待を宿しています。心の奥底にある見えないもの、あるいは経験したけれども見えなくなってしまったり消えてしまったりしそうなものを、見えるものとして残しておく。儚い出来事を記憶しておきたいという欲望の源泉のひとつには、それが叶うかどうかはさておき、視覚的イメージへの妄執があるのは間違いないでしょう。

 心霊写真論の専門家である浜野志保さんは、主著『写真のボーダーランド――X線・心霊写真・念写』(青弓社)において、主として19世紀中葉から20世紀前半にかけて生きた人々が目に見えないものを視覚化し、説明できないものを科学的に理解しようとしていたその営為を活写しています。今から見ればオカルトとして片づけられるこれらの試みは、当時は真剣な科学の実践でした。いや、オカルトへの没頭は、目に見えないわからないものをどうにか理解したいという一途な思いに発しているという意味において、根源的には科学と截然と切り離すことができないものでしょう。写真というテクノロジーが写すものは肉眼に映るものとは違います。だからわたしたちは写真を通じて「それは存在する」と信じるしかありません。視覚メディアは肉眼によって見られる対象なのではなく、わたしたちとは異なるものの見方をする見る主体なのではないでしょうか。レントゲン写真に映っているものは本当に存在しているものなのでしょうか。わたしたちの肉眼は実在する世界を視野に捉えていると言えるのでしょうか。いや、そもそも見ることというのはどういうことを意味するのでしょうか。「幽霊は存在する?」 「妖精は?」 「超能力は?」という話題を通じて、以上のような視覚の問題を考え直すきっかけを与えてくれるのが浜野さんの研究なのです。

 見えないものを見たいという欲望には当然、「見たということにしたい」というねつ造への誘惑が潜んでいます。事実、フォトショップを始めとする写真編集技術の進歩によって、現在では「盛る」ことは日常的なことがらになっています。写真のねつ造・偽造・改変の問題に注目すれば、思い出したくないものを隠蔽するための蓋の役割を果たす偽物の記憶や本当は経験していないのに大人たちから吹き込まれた記憶があるかもしれない、という気づきを得ることにもなるでしょう。わたしたちは写真を撮るときに被写体を見ているのか、という問題も浮上します。わたしたちに残されるのは《記憶》ですらなく、カメラが経験したものを写した《記録》なのではないでしょうか。

 上述したわたしのヴィジュアル中心の記憶も実は「盛っている」、あるいはでっちあげられたものなのかもしれません。人生最初の記憶から。わたしが出会ったと思っている出来事が実はなんらかの理由でねつ造されたものだったとしたら、わたしは存在しているのかどうか不安になってきますね。なんだかクリストファー・ノーランじみてきたのでこの辺にしておきましょう。

 記憶文化論と視覚文化論の競演。お見逃しなく。

 

日時: 11月26日(日) 13:00~14:30+α(12:30開場)


会場: 大學堂(北九州市小倉北区魚町4丁目4-20 旦過市場)


参加費: 500円(先着20名・要予約)


出演: 浜野志保(視覚文化論)✗ 三村尚央(英文学)


聞き手: 逆巻しとね(文芸共和国の会・世話人)

#予約方法#

vortexsitone@gmai.com(逆巻)まで、

件名を「11/26 小倉トーク予約」として、

【1.お名前、2.参加人数、3.ご連絡先電話番号】

をご記入の上お申込みください。

逆巻からの予約確認メールをもってお申し込み完了といたします。

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